万引き家族っていう映画観てみたんだけど、他の人はどんな風に感じたんだろう?
このような疑問にお答えします。
「万引き家族」を観たことない人は、ネタバレがあるのでご注意ください。
家族とは何か?を考えさせられる映画でした。
おそらく、観る人によって大きく評価が分かれるのではないかと思います。
家庭環境や社会問題などの問題提起を含んだ作品であり、感情をかなり揺さぶられ色々考えさせられました。
各登場人物の背景や心情から僕自身感じたことを考察してみます。
※ネタバレを含みます。
まだ観ていない人は、AmazonでPrime Videoで配信されているのでぜひ観てみてください!
あらすじと家族関係の整理
物語の前半では、普通の家族関係ではないことはわかるが詳細は分からないままストーリーはすすんでいきます。
後半では、背景や家族関係などが暴露されていきますが、しっかり描かれておらず一回観ただけでは分かりにくいところもあります。
以下、Wikipediaからの引用です。
東京の下町に暮らす柴田治(リリーフランキー)とその妻信代(安藤サクラ)には、息子の祥太(城桧吏)、信代の妹の亜紀(松岡茉優)、そして治の母の初枝(樹木希林)が家族として同居していた。家族は治と信代の給料に加え、初枝の年金と、治と祥太が親子で手がける万引きで生計を立てていた。しかし初枝は表向きは独居老人ということになっており、同居人の存在自体が秘密だった。5人は社会の底辺で暮らしながらも、いつも笑顔が絶えなかった。
そしてそこから、貧困、児童虐待、家族問題、社会問題などを家族の生活の中で問題提起をしつつ展開されていきます。
最終的には、初枝の死と祥太の万引き発覚を契機に家族背景が明るみになってきます。
それぞれの心情や背景も交えつつ、家族とは何か?を考えさせられる映画となっていました。
Wikipediaを読めば、かなり整理されるので、一読をオススメします。
親の背中をみて育つ子供(祥太)
僕は、この万引き家族の中でいくつかの主題や問題提起がされているなぁと感じましたが、その中の一つに物語の中での祥太(城桧吏)の成長と心の葛藤も考えさせられました。
祥太は記憶も残っていない幼い頃に、パチンコ屋の車の中で放置されぐったりしていたところを治らに拾われたという背景をもっており、本当の両親を覚えていないといいます。
そして祥太は幼い頃から万引きのノウハウを治から教えられており、「店の物はまだ誰のものではない」という考えを信じていました。
祥太は善悪の判断もつかない純粋な少年であったといえます。
万引きが悪いことという認識も薄く生きるための糧として、日常的に万引きをしていました。
そこで契機になったのは、妹であるりん(佐々木みゆ)に万引きをさせたところ、駄菓子屋のおじいちゃんに妹にはさせるなといわれ、見逃されたことだったかと思います。
ここで祥太(城桧吏)は、万引きしていることがずっとバレたうえで見逃していてくれたことを知ります。
そしてそれを祥太は治(リリー・フランキー)に伝えますが、治には気にも留めず流されます。
祥太としては今の悶々とした自分の気持ちに対しての答えは得られない。
おそらく家族以外の人間に指摘されたり注意されたことがなかったのではないのでしょうか?
自分は正しいことをしているのか?どう生きるべきなのか?など答えを探しているように感じました。
そして祥太自身は万引きするとき以外は少年らしく純粋なところが描かれています。
その後、車上荒らしを治がする場面で、「これは他人のものじゃないの?」という発言に対して、治は「だから?」と一蹴します。
それに対しての、祥太の治に対しての軽蔑の目が印象的です。
ここでおそらく祥太は善悪の区別がつき、治の悪に気付き自分がどうあるべきなのかに気付き始めたのだろうと思います。
初枝(樹木希林)が亡くなった後にみつけたへそくりのお金を手にしてはしゃいでる治と信代を、無言でただ見つめているのも印象的でした。
そして、ゆりが自分の意志で万引きをしようとしたところで、自分がわざと捕まるという選択をすることになります。
その後、治がケガをした祥太を見捨てようとしたことを知り、自分で人生を歩むことを決心したのだと思います。
治がバスを追いかけるのに対して、まったく視線を向けず、最後に何かをつぶやいたのも印象的でした。
祥太は善悪の区別のつかない純粋な少年であり、万引きは悪であるということを教えられず育てられていました。
そこで、治という悪に対して反面教師として学んでいく姿が垣間見えました。
最後は、学校で優秀な成績をとり、本で釣りについても自分で学び、自分の足で人生を歩んでいく姿が頼もしく感じられました。
善悪の区別のつかない子供にとっての親の影響力という問題について、見事に表現しているなと思います。
駄菓子屋のおじいちゃん(柄本明)のような人生の在り方を教えてくれる人との出会いで、子供は大きく変わりえるのです。
ダメな父親なりに子に教えられること、夫婦とは(治)
治(リリー・フランキー)はどこか憎めないところもありながらも典型的なダメ男として描かれています。
万引きなど悪を悪とも思っていないような言動がうかがえます。
ただ、児童虐待を受けているであろうゆり(佐々木みゆ)を連れて帰ったり、パチンコ屋の駐車場の車でぐったりしている祥太(城桧吏)をを助けたり、単純な悪党ではなく人情のある人間として表現されています。
祥太が変わっていくのに対して、変わらない悪として対になっています。
ホステスであった信代(安藤サクラ)がDVを受けていることを知って、前夫の殺害に加担するなど、人情には厚いが悪を平然と行える人間なのでしょう。
「お父さん」と祥太に呼んでほしいという想いを持ちながらも、最後にケガをした祥太を見捨てようとしたことも告白して、「おとうさんじゃなくておじさんに戻る」と祥太のことを思い身を引きます。
リリーフランキーの演技もなかなか素晴らしく、見事なダメっぷりを表現していました。
信代に対しては「性」ではなく「心」でつながっていると表現し、不思議な夫婦の愛情の形も表現されていました。
しかし、尋問場面では二人の繋がりを「殺人でのつながり」と表現しています。
祥太に対して、万引きを教えたことに対しては、「俺にはこれしか教えられないから」というような発言もありました。
父親とは何か?を考えさせられます。
母性とは?母親はどうやって母親になるのか(信代)
信代(安藤サクラ)は作中において母性をもった人間として表現されています。
安藤サクラの演技も素晴らしく、最後の捕まった後の尋問での表情や間などにも引き込まれます。
「子供を産んだら母親になるんですかね?」という言葉には重みがあります。
ゆりをネグレクトや児童虐待している実の母親とは対比される役として表現されています。
ゆりの本当の母親は、ゆりが行方不明になっても捜索願いも出さず放置していました。
そして最後にゆりが戻ってきても再び児童虐待を行っていました。
一方、信代は血は繋がっていないものの、ゆりに対して本当の娘として心を通わせている姿には心を打たれました。
ゆりに服を買うときに、ゆりが「たたかない?」といったことに対して、「本当に愛してるなら叩くんじゃなくて、こうするんだよ」とゆりを後ろから抱きしめる姿には涙しました。
自分自身は子供ができない体であり、子供に対しての羨ましさもあったのではないかということが伺えます。
血縁関係にはないですが、ゆりに対しては心の上では母親であったと思います。
ただ、尋問を受けていた際に、「ゆりはあなたのことを何と呼んでいましたか?」と聞かれた際に、何も答えられず「どうなんでしょうね?」と涙を流しながら発言します。
ここで、信代は心の上では本当の母親であったつもりでも、世間的には違うことを実感させられます。
そして、祥太に対しても、最後に祥太を拾った場所を伝え、自分の元から離れて自分の親を探すように諭します。
血縁関係にない心の通ったといえる母親、血縁関係にあるが児童虐待をする母親。
母親とは何か?を考えさせられます。
子供は親を選ぶことはできない(ゆり)
ゆり(佐々木みゆ)は幼い子供で、本当の両親から児童虐待を受けている子供として描かれています。
子供ながらに本当の両親の下に帰りたいとは言わず、万引き家族での生活を選び楽しい生活を送ります。
しかし、現実は慈悲なく万引き家族がバラバラになった際には本当の両親の下へ帰されます。
作中にある「子供は親を選べないからね」という言葉が真実だなと感じさせられます。
そして「血がつながっていない関係だから強い。絆でつながっている」という言葉もまた真実でもあるのかもしれません。
現実問題でも、本当の親から愛情を受けず虐待を受ける子供がいるという社会問題の象徴として示されているといえるでしょう。
血縁関係があることが親子であることのすべてなのか?いやそれだけではないだろう?本当の親子でも児童虐待が存在するということが問題提起されていると思います。
児童虐待を受ける子供の声にならない声が、ゆりという子供に表現されています。
孤独独居高齢者の在り方(初枝)
初枝(樹木希林)は、独居老人で年金生活でありながら、殺人を犯した治(リリー・フランキー)や信代(安藤サクラ)と拾われてきた祥太(城桧吏)をいきさつを知ったうえで受け入れていました。
ある意味、家族の形について血縁関係だけがすべてではないという図太さをもって高齢者、お金の繋がりでの家族として描かれていたのではないでしょうか?
物事を善悪や常識だけではなく、ある意味お金上の関係や悟りの境地からすべてを受けれていたように思います。
さながらお金を払って見ず知らずの他人と暮らす施設に入っている身寄りのない高齢者と重なりました。
そして亡くなった後は埋められて、年金をもらう道具として利用される。
この部分に関しては現実でも同じような話がありましたね。
でも、孤独死して亡くなったまま気づかれずにいる高齢者が多くいる現代社会を考えれば、ある意味それも人生の幕おろしとしてはアリなのかもしれない。
亜紀からだけはお金をとっていなかったという点に関しては、お金の関係ではなかったと信じたいところです。
しかし、夫の命日に後妻の宅へ出向き、お金を両親から毎月3万円もらっており、ある意味打算もあったのかというところも感じます。
今は亡き樹木希林さんの演技も素晴らしく一見の価値ありです。
不自由のない家族で満たされない若者(亜紀)
亜紀(松岡茉優)は、恵まれた両親と家庭のように思える家族から、あえて離れて暮らす若者として描かれています。
現実社会でも一見恵まれた家庭でも、何かが満たされない若者はいるのではないでしょうか?
一方、汚く狭い家でなぜ血縁関係にない家族と生活を選んだのか?
亜紀が初枝(樹木希林)と一緒に暮らすことを選んだ経緯は語られていませんが、命日に自宅に訪れる初枝にどこか救われたところがあったのでしょう。
そしてそこに本当の家族愛を感じていたのでしょうか。
唯一万引きや犯罪に手を染めていない彼女ですが、性風俗で働く現代女性のお金問題や心の闇の部分を表現しています。
両親は初枝の下で亜紀が暮らしていることに気付きながらも気づかないふりをしていたり、性風俗店での源氏名を妹の名前にしているところにも何か家族関係の問題があったのでしょう。
裕福で恵まれており世間体もいい家族が必ずとも幸せではないということも表現されているといえます。
まとめ
家族とは何か?を考えさせてくれる映画だと思います。
父親とはどうあるべきなのか?親の背中をみて子は何を感じるのか?
母性・母親とは?生むことで母親になるのか?
親子関係に血縁関係は必須なのか?血縁関係にない親子関係は存在しえないのか?
子供は親を選べないが、親に求められていない子供はどうすればいいのか?
夫婦の形とは?血縁関係にない夫婦は何でつながっているのか?
裕福で満たされた家庭にみえる家族が本当に正しい形なのか?
高齢者の人生の幕引きの在り方とは?
血縁関係だけではない家族のつながりって何?お金・絆?
こういった「家族とは何か?どうあるべきか?」という様々な問いを投げかけてきます。
それぞれの家族の形があるのではないでしょうか。
家族はこうあるべきといった正しいものはない気がします。
映画はフィクションではありますが、一つ一つを切り取れば現代社会の中の問題として実際に存在する現実なんだと思います。
現代の社会問題・家族問題について様々な問題提起をしています。
児童虐待、独居高齢者問題、貧困問題、性風俗で働く女性の中に潜む闇など様々な社会に存在している問題が作品内で描写されています。
決して後味のいい映画ではないし、答えが用意されていないし説明が不足している部分もあると思います。
ただ現実社会や家族の在り方ってそんな簡単に答えはこうだと出せるような単純なものではないし、それぞれが見つけていくものなのだと思います。
何かしらを感じたり考えさせてくれる映画ではないでしょうか。
題名から娯楽性やエンターテイメント性を求めて観た人にとっては評価は受けないかもしれません。
でもそういう映画ではないし、おいしくもまずくもない残らない映画をみるぐらいなら、こういう映画を観てみるのはいいんじゃないかなと思います。
家族とは何か?
考えるきっかけにできればいいなと思います。
それでは、また!